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舞台写真撮影の体験記

 青天の霹靂のような「女声コーラス・コンサートの写真を撮って欲しい」という依頼がありました。
平素は街のなかを歩き回りながら、気に入ったものを探し撮っている私ですから、写真をやっているというだけで、方角違いの依頼におおいに戸惑いました。
どちらかといえば「廃屋好き」でそんなところばかり探し、撮っています。仲間の方からは変な奴だと思われているのではないでしょうか。

 依頼をされた方は、コーラス・グループの世話役をやっておられ、撮ってくれる人を探してみたがいないので困っており、「藁にも縋る思い」のご様子でした。写真機を持っていれば誰でも良い訳ではないと思いますが、藁でよければやってみようと引き受けることにしました。

 さて、どんな劇場で、どんな構成のコーラスグループで、どんな場面を撮るのか、また自分の写真機材で撮れるのかなど、次から次へと不安の種が頭を過りました。
そうこうしている内に、当日のプログラムのゲラと撮ってほしいシーン(1~3ステージ毎の全員の写真とパート毎の写真など)等具体的になってきました。もうこうなったら腹をくくるしかないという気になりました。

 とりあえず会場となる市立の小劇場のホームページで舞台・客席の概要をチェックしました。客席は358席で階段状になっていました。
また、当日のコーラスメンバーは24名と指揮者(コーラスの先生)・ピアニストです。

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 さて、次に実際に撮影するにはどうすればいいかと自分なりに纏めてみました。
会場、コーラスメンバー数、撮影条件や使用するカメラ・レンズ(といってもいつも街歩きで使っているカメラとレンズしか持っていません)、三脚、カメラ設定(ISO,ホワイトバランス、絞り、測光など・・・といっても平素はこんなことは考えずカメラまかせで撮っています)を纏めてみました。
 これを、いつも指導を受けているワークショップ写房(写真塾)の家元(先生)に相談してみました。
その結果、・シャッタースピードに注意すること ・一脚でなく三脚を使用すること ・撮影位置は八地点にすることなどのアドバイスをもらいました。
 これで頭の中だけは整理ができました。

 いよいよ本番です。
ここで有り難いニュースで、撮影は劇場で装置、舞台衣装など本番並みのリハーサルを行うのでそこで撮ってほしいということです。撮り直しはきかないのは同じですが、客席を気にせず、自由に場内を動き回れるので気は楽です。
ステージの配置は、客席側から指揮台、グランドピアノ、奥にコーラス用の三段の台が設営されています。
真ん中に設営されているグランドピアノの黒光りする大屋根(ふた)が大きな口をあけて「撮れるものなら撮ってみよ」言わんばかりにこちらを威嚇しているように見えました。
ただ、指揮者の先生が、こちらの気持ちを察していただいたのか、「場内では自由に撮っていただいていいですよ」と声をかけていただき、撮りやすくなりました。

 あとは広い場内で、アドバイスを受けたカメラ位置を移動しまくり、ついには舞台のすそまで上がり込み、無我夢中の2時間半が終わりました。

 後日、写房の家元に数枚見てもらいましたが、まあまあではないかという顔に見えました。(本当のところはわかりませんが)
しかし、後で考えてみるともう撮り直しがきかないのですから、良し悪しは言えない訳で、こんな顔しか出来なかったのではないかと気づきました。家元のお気遣いに感謝です。
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# by tsutomu-sumi | 2016-08-16 12:57

那覇の色彩 Ⅱ

 那覇空港から首里城までタクシーに乗りました。
運転手さんが「冊封をご存じですか」、丁度通りかかった石門のある木の茂った所を指して「ここは当時、冊封使が首里城へゆく際に先代琉球王を弔う儀式を行った寺の跡です」、「冊封使に琉球が大きな国であると思わせるため、港から遠回りして首里城へ案内したそうですよ」など観光地ならではの説明をしてくれました。
そんな説明をボンヤリと聞きながら、我々の車も遠回りをしないで欲しいものだと思っていました。

 前回のブログで「琉球王朝時代に東シナ海の地の利を生かした貿易の拠点としておおいに栄えた」と書きましたが、運転手さんのいう「冊封」とおおいに関連しています。というより、「冊封」があったから琉球王朝の貿易が栄えたようです。

 当時、中国・明王朝は歴代王朝にならって周辺諸国に朝貢(明に臣下の礼をとる)を求めていました。琉球も例外ではありませんでした。

 私が琉球王朝の「したたかさ」を感じたのはここからです。

 琉球王朝は、朝貢をすることに決めました。(冊封体制に入る)
明朝皇帝から認められ、明から使節の「冊封使」が琉球に来ました。そして琉球国王に対して「なんじを琉球国王に任命する」との宣言、儀式を行いました。

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皮弁冠(王冠)
明朝 冊封使が琉球国王の任命宣言の際、この王冠と服を贈った。

この冊封体制に入ると明国との朝貢貿易が出来るようになります。
当時、明国は海禁体制(鎖国)をとっていましたから、中国商人は自由な貿易が出来ませんでしたので琉球が手にした明国との唯一の交易手段は大変なものでした。それだけでなく、明王朝からは大型船や航海技術や人材まで提供を受けるという大きなメリットも手にしました。

琉球王朝は、これらのことを十分に活用し、東アジアのチャンバー、マラッカ、アユタヤ、ルソン、日本へと活動範囲を拡げ、中継貿易(ある国から輸入したものを他の国へ輸出する)でもおおいに稼ぎ、繁栄したようでした。

 明国への朝貢貿易で琉球が輸入したものは、絹、鉄器、陶磁器、銅銭などでした。輸出したものは、馬、硫黄や中継貿易品の蘇木、胡椒、象牙などでした。

 「琉球の馬」? と思いますが、琉球には宮古馬、与那国馬などが飼われていたようです。          また、当時、明朝は北方モンゴルとの抗争で軍馬が必要であったようで、宮古馬を多い時には一度に千頭近く輸出されたこともあったそうです。

 琉球のことですから朝貢貿易で手にした明国の絹、鉄器、陶磁器、銅銭も他の国々へ輸出して稼いだことだと思います。
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# by tsutomu-sumi | 2016-07-17 16:26

那覇の色彩

 沖縄の那覇に行きました。いつも旅をする際には、若干の下調べをする程度です。
今回は出かける前に、NHKの”ブラタモリ”という番組で「那覇」を取り上げ放映しました.とても参考になりました。

 ”ブラタモリ 那覇”では、那覇には二つある。それはオールド那覇とニュー那覇である。オールド那覇は、国際通りの北西の海側で、かっての那覇の中心はこの港のある街である。琉球王国時代は、東シナ海の地の利をいかした貿易の拠点としておおいに栄えた。しかし、太平洋戦争・沖縄戦で爆撃にあい、街は消滅してしまい、以前の栄えた街の面影は見られなくなった。
一方、国際通りの東・山側にあるニュー那覇は、昔は、湿地や畑地で人はほとんど住んでいなかったが、米軍から追い出されたオールド那覇の住民などがこちらに移住してきた。以前からの壺屋焼の街や戦後の闇市から発展した公設市場などが次々と迷路のようにアーケード街を延ばし、ここから沖縄の復興が始まった。というような内容でした。

 今回の那覇の旅は、いつものようにカメラをぶらさげてニュー那覇中心の街歩きです。
那覇の地図を見るとはっきり分かることがあります。オールド那覇は、区画整理が出来た街になっています。ニュー那覇は、蜘蛛の巣状というか迷路状というか、全く分かりにくい道路の街です。昔からの道なのか、必要に迫られ無計画に延ばしたのか分かりません。とのかくここを歩くのには随分苦労させられました。

 一番楽しみにしていたのは、壺屋やきむち通りにある焼き物の街です。背の高さほどの生け垣が、迷路のように曲がりくねった小道が続き、古い登り窯や、焼き物工場、その店が点在しています。那覇の街中には色々な花が咲いていますが、ここの生け垣にも花が咲いており、和ませてくれました。

 ここでは壺屋焼といって、鉄分を含んだ陶土の風合いを生かした見た目には荒い焼きものです。荒焼といってベトナム方面など南蛮焼の系統です。素朴で重量感のある焼き物で初期には水甕、みそ甕、酒甕など貯蔵用の焼き物が多かったようです。
また、上焼という大陸渡来の絵つけされた焼き物もあります。
それにしてもベトナム方面からとか、大陸渡来などとか海洋国ならではと思います。

 那覇には、「紅型(びんがた)」という私達にも馴染みのある染色技術があります。街ではいたるところで「紅型」で染めた織物を目にし、この鮮やかな色、模様に、那覇に来ているのだと実感させてくれました。

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# by tsutomu-sumi | 2016-06-28 11:40

学校へ行く

 週1回 愛知学院大学へ通っています。今年で4年目となります。
実は現役(在職中)のころ人事部にいましたので、人材採用のためこの大学にもよく来ました。当時の「就職部」は、今は「キャリアーセンター」へ名称を変えていました。時代の移り変わりを感じます。

 大学のバスターミナルに着き、木々や芝生が青々としていて、春は桜、秋は紅葉の広大なキャンパスを教室まで歩くのも気持ちが良いものです。

 退職後、中京大学で「仏教美術」、NHK文化センターで「シルクロード学」を学びました。「シルクロード学」では、50回以上シルクロードの仏教遺跡、故城などの学術調査をされた担当の山田先生の話は迫力がありました。また毎回かなりのボリュームの宿題が出て、その都度鶴舞図書館のお世話になったのも良い思い出です。
 現在、愛知学院大学では、学生に混ざって中国の秦王朝以降の歴史を辿り、東アジア(中国、朝鮮、日本)の三国の関係について学んでいます。
 日本(当時の倭国、邪馬台国、倭の五王)が後漢、魏、南北朝の王朝へ朝貢に出かけ、その後隋、唐へ遣隋使、遣唐使を派遣しました。東アジア三国がそれぞれどのような思惑、狙いをもち、それがどのように変わっていったかを学んでいます。

 私は、宮城谷昌光の小説が好きで、主に古代中国(商、周、春秋戦国時代)を中心に書かれた作品が多いので、これらの小説を読み返しながら講義を聴くのは興味深いものです。

 在職中は仕事一辺倒(ただ仕事に時間を費やしていただけ)で、趣味もなく極めて視野の狭い生き方をしていました。
 この反省もあり、退職後は今まで目を向けてこなかったことを見てみようと思い、色々手をつけています。
 しかし、若いころによく聞かされた「少年老い易く、学成り難し」という言葉が時々頭を過ぎり、自分はこの言葉を地で行っているように思え、身が縮む思いがしています。

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# by tsutomu-sumi | 2016-05-10 11:27

東山動植物園 温室前館

 東山動植物園 温室前館は、中央にヤシ類を植えた背の高い温室棟と左右に羽を広げたように延びた多肉植物、シダ類などを植えた温室をもつ構造です。
1937年に開園した当時は東洋一の水晶宮といわれました。開園からの年数が私の年齢とほぼ同じです。それだけに温室好きな私には特別な親しみがあります。

 海外の植物園では、ロンドンのキューガーデンにあるパームハウスという大温室が有名です。温室の構造は、ヤシ類など背の高い植物の植わった高い中央棟と左右に長く伸びた温室を配しています。
東山の温室と写真を見比べると基本構造はほぼ同じで、よく似ているように思います。
ただ、パームハウスは大きさでは東山より二回りくらいは大きいです。また開園は東山より90年くらい古い,歴史のある植物園の大温室です。いつかは行ってみたい大温室です。

 ところで、水晶宮といわれた東山の温室前館もよる齢並みには勝てず、老朽化の対策と耐震補強をしなくてはならなくなりました。
二年ほど前から調査と解体工事が行われていますが、いよいよ修復工事に取り掛かるそうです。
国の重要文化財であり、出来るだけ開園当初の姿を残したいとの園の思いもあり、文化庁との打ち合わせや有識者との検討委員会などと慎重に進めているとのことです。

 私も実際に解体中の温室に入りました。勿論、植わっていた植物はすべて別の建物に移されています。
鉄製の骨組み(ガラスは取り外されていました)とコンクリートの基礎部分、水が抜かれ底に水はけをよくするための大きな石の敷かれた池だけの素っ裸の温室でした。
温室ですから高い湿度と温度、水気のため全体を支えている鉄の骨も腐食がすすみ、一部には今までに切り継ぎなどの補修がされた跡もありました。

 鉄の骨組みは、鉄の特性で太陽熱など外気温により伸び縮みするので、腐食した部分の切り継ぎなどは工事は大変のようです。また、建設当初は、断面がL型になった鋼材を張り合わせたもので造られたおり、現在のようにH型鋼がない時代でしたから鋼材の加工から大変のようです。

 床に張られたタイルのなかに開園当初のタイルが張られた部分が発見されました。わずかな部分ですが説明を受けて、この目で見たときはやや興奮してしまいました。

 復元され公開されるのは3年後だそうですが、どのような姿を見せてくれるかますます楽しみになってきました。

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# by tsutomu-sumi | 2016-04-20 18:09